柳田知子バイオグラフィーPart1
~アフリカに導かれ、アフリカンダンスと出会う~
1956年
大阪福島区に生まれる。その後はずっと、西区で育つ。
1961年?
音楽 好きの父からハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte- 1985年に、あの「ウイ・アー・ザ・ワールド」を世に送り出した「USA フォー・アフリカの提唱者」 )の「DAY O!(日本語タイトル:『バナナ・ボート』)」を聞かされて、しびれる!!
同曲の原曲がカリプソであったためか、そのルーツであるアフリカ的なものを強く感じ、衝撃を受ける。それ以来、人生のキーワードが「アフリカ」になる。
以後、テレビで、実写版「少年ケニア」を見ても、「ターザン」を見ても、ただ、ただ、原住民という設定の人々に共感してしまう
~1969年(?)
大変に内向的な性格であったが、テレビの「ザ・ヒットパレード」を見ながら、ツイスト、モンキーダンス、ゴゴーを踊りまくるとき、自分の、アイデンティティー(自分の本質)に、薄々気づく。
その後、自身のダンスへの衝動に気づくことなく、中学2年生から高校2年生 まで、不登校(当時は、「登校拒否症」や「ノイローゼ」と呼ばれていた)となり、さまざまな治療、除霊などが施されるも、拒食症、過食症、引きこもりを続ける。
※しかし、その間1970年代の日米のフォーク・ロックとの現代詩のおかげで、かろうじて生き延びる。そのせいか、現在もYOU TUBEで「ザ・バンド(The Band)」等を聞くと、パソコンの前で正座してしまう。
1975年
当時、アメリカから来日中の、ダンサーでコーリォグラファー(振付師)のマライカ (Malaika) さんが踊る、ゴスペルをモチーフにした作品「Oh! Yeah!」を見て、衝撃を受け、ダンスへの衝動が大爆発する。
大学受験の浪人中であったにも拘らず、マライカさん主宰のダンスカンパニーに入り、入った日からバレエ、ジャズダンス、モダンダンスの基礎を叩き込まれる。その後3年間は、週5~6日、毎日およそ5~6時間以上踊る。
※同じ年、ライブコンサートで R&Bシンガーの砂川正和の歌声を聴き、人生3度目の衝撃を受ける。また衝撃の直後、当時、見ず知らずの砂川氏が生涯の伴侶となるという啓示を受ける。
(私の人生では、NO1の濃い年であった。)
1976年
桃山学院大学社会学部入学。ゼミで「アメリカ黒人の歴史」を学ぶ。
英語講読の教材は、「マルコム(Malcolm) Xの演説集」(!!)
1982年
UCLA(カリフォルニア大学ロスアンジェルス校)で、ダンス学、そしてアフリカンダンスが学べると聞き、渡米。
UCLA入学準備のため、サンタモニカ・コミュニティ・カレッジ、ダンス科に入学。
1983年
競争率5倍のオーディションと書類審査を経て、UCLA大学院、ダンス学部、パフォーマンスとコリオグラフィ(創作/振付)専科に入学。
ほどなく、卒業コンサートの作品発表のための熾烈な競争と、学内の容赦ない人種差別にぶちのめされ、挫折しそうになる。
1984年
ダンス学部 舞踊民族学科に編入する。文化人類学、民族学を学びながらアフリカンダンス(ハイチの舞踊、ガーナ、ナイジェリアの舞踊)はもちろん、インド舞踊、バリ舞踊、エジプシィアンダンス(ベリーダンス)に没頭する。
※「ボリウッド」映画のダンスの振付をしたい!!というのも、現在の夢の1つ
1986年
ロスアンジェルスのアフロアメリカンコミュニティの西アフリカのダンスクラスに通い始める(当時は、コミュニティのアフリカンダンスクラスは、黒人の人たちの神聖な場所で、東洋人の私は、何度も門前払いをくらった)。
UCLAの客員教授のイノ・ワシントン(Eno Washington)氏の西アフリカのダンスを踊る姿に人生4度目の衝撃を受ける。その知識、指導方法にも敬服し、弟子となる。
※アフリカンダンスの指導者として、今ある私の基本は、氏の指導によるものである。
同年、アメリカにアフリカ音楽を紹介したパイオニアであるナイジェリアのドラマー、ハバトゥンジ・オラトゥンジ(Babatunde Olatunji)氏のワークショップをはじめ、「アメリカの黒人舞踊の母」と呼ばれる、ダンサーにして文化人類学者のキャサリン・ダナム(Katherine Dunham)氏のセントルイスでのキャサリン・ダナム・セミナー(ハイチの舞踊)や、同じく、ダンサーで文化人類学者のパール・プリモス(Pearl Primus)氏のボストンでのセミナー(ナイジェリア・中央アフリカの舞踊)に参加し、パール・レイノルズ(Pearl Reynolds)氏やハイチ出身のジーン・リオン・デスティニー(Jean Leon Destine)氏等、アメリカの黒人舞踊史にその名が燦然と輝くダンサーやコリオグラファーの指導を受ける。
※この年も濃かった!! そして、この年、ご存命の時の彼ら(キャサリン・ダナム氏以外)に直接指導を受けたことが、私の誇りでもある。
1987年
ダンス学修士(M.A. in Dance)を取得し、帰国。
柳田知子バイオグラフィーPart2
※1 ひとりアフリカ理解プロジェクト
1987年以来、西アフリカのダンス(主にセネガル、ギニア、マリを中心とする地域)と、音楽、そしてその背景にある、人々の暮らしや、文化を紹介することを続けている。
ダンスワークショップ
1991年以来、東京の青山教室をベースにダンスワークショップを主催しながら、砂川正和(ジンべを演奏)と共に、北は、北海道サロマ湖の近くの常呂から、南は、奄美大島にて、ワークショップや公演活動を行う。
1993年から1999年の間、横浜市の「ラ・ポール」で、岩田みどりさんと、障害がある人も、ない人も共にアフリカンダンスを楽しむための「命のリズムを楽しむ会」を主催する。
本の出版
多くの皆さんに、アフリカンダンスを知っていただきたいという思いで翻訳をしたり、本を書いたり、DVDを作る。
- 著書:
- 「アフリカンダンス入門」(スキージャーナル社)
「アフリカの太鼓で踊ろう」(音楽之友社) - 翻訳書:
- 「アフリカの知恵、癒しの音」ヤヤ・ジャロ、ミッチェル・ホール著 (春秋社)
- DVD:
- 「西アフリカの太鼓で踊ろう」(株)T&H
アフリカのドラマーや
ダンサーの招聘
1992年にセネガルのマスタードラマー(名人)のアブドゥライ・ジャキテ氏と、マスターダンサーのアラサン・カン氏を招聘して、ワークショップを主催して以来、アブドゥライ氏には、何度も来日して、指導していただくようになる。
2002年には、アブドゥライ氏と、当時、セネガル国立舞踊団のプリマであったタコ・シソコ氏を招聘して、6週間のワークショップと「ザ・スピリット」(文化庁芸術文化振興基金助成公演)を主催する。
アフリカでダンスと
太鼓を学ぶ旅
アフリカで、そこに生きる人々と共にダンスや太鼓を体験することを目的に、1993年より、ほぼ毎年「セネガルでダンスと太鼓を学ぶ旅」を主催。これまでの参加者は、延べ約250人。
旅のメインイベントは、セネガルのさまざまな民族の村で、太鼓の演奏とダンスを伴う儀式を体験することで、セレ族、レブ族、バマナ族、バサリ族の儀式は、観光旅行では、体験できない希少で貴重な生々しいアフリカの体験となった。
参加者をお連れしてのセネガルやガンビア、マリへの旅は、そのまま、柳田自身のフィールドワークとなり、ダンサーであり研究者であるという自負は、多くの儀式を体験し学んだこと、その記録や情報量に支えられている。
アフリカンダンス
アフロビクス
インストラクター養成講座
アフリカンダンスをよりシンプルな形にして、そのエッセンスを広く伝えたいという目的で、伝統的なアフリカンダンスをベースにしたフィットネスプログラム「アフロビクス」を登録商標にする。
2006年より、インストラクター養成講座を主催する。
2009年 アフロビクス、フィットネスのためのCD「African Groove for Fitness」をプロデュース。
2012年 Executive Producer として、音楽家Leon Mobleyとともに米国でCD「Afro Dance Groove」を制作する。
柳田知子バイオグラフィーPart3
※2 ひとりNGO
2005年
セネガルの内陸にある、タンバクンダに、アブドゥライさんのアメリカのお弟子さんたちと共に「世界中の人が、マスタードラマーのアブドゥライ・ジャキテ氏の元で、バマナ族のジンべ(太鼓)やダンス、歌や歴史を学べる場所― タンバクンダキャンプ(合宿所)」を建設する。
「学ぶ場所」が、本来の合宿所の目的であったが、外国人の私たちが、そこを頻繁に訪れるたびに、地域の人に 「儀式を見せてください」とお願いしているうちに、それが、地元の人たちも20年~30年は、見たことがないという儀式を復興することのきっかけになり、合宿所の存在と、そこを訪れる私たちが、タンバクンダの伝統芸能等を復興する原動力になっていることに気づく。
1999年
バマナ族の猟師の秘密結社の儀式「ソゴニ」を初めて、タンバクンダの街で行う。
2007年
タンバクンダでは、20年(30年ともいわれる)ぶりにバマナ族の最大の儀式「ンバラ」を復興する。
タンバクンダキャンプを、外国人のみならず、現地の人々もアフリカの伝統文化を学ぶ場所として運営しながら、地元の伝統芸能の復興を通して地域文化を活性化させることの手伝いをしたいと、考えている。
ここ数年は、ひとりNGOから、アブドゥライさんのアメリカのお弟子さんのジェシー・サビーンさんと、ふたりNGO体制になりつつあるが、このプロジェクトを、持続可能な活動にしていくことが、私のライフワークの1つになるのかなー? と思っている2015年。